おかげさまで。

2010年1月26日
母方の祖父が亡くなった時。
ぼけが来て、体が弱ってという話をたびたび聞き、実際会うたびにそうなっていて、何度か目の前で危ないかもしれないという状態になって亡くなった。
もちろん悲しかったし泣いたけれど、お葬式の時読み上げられた祖父の人生(宗派によると思うけれど、生前の簡潔な履歴)を聞いているうち「そうか、生まれてから勉強して働いて、結婚して子供を育てて孫もできて、いろんな思いをしながら、ぼけて弱るまでちゃんと生きたんだ、人生でやることは全部やって力を使い尽くしたんだ、だからおじいちゃんはもう(その資格が十分あるという意味で)死んでもいいんだ」と思った。
体が思うように動かなくなったことや、ぼけで記憶があいまいになったことを、本人も苦痛に感じていたようだったと聞いたせいもある。
おかげで張り詰めていた気持ちがとても楽になって、法事の最中うたた寝をしてしまった。

父方の祖父が亡くなった時。
私自身が年齢を重ねたこともあったかもしれないけれど、受け取り方が全然違っていた。
何度も具合を悪くして入院しても、退院してきた時に多少弱った印象があるくらいですぐに元気を取り戻すひとだった。
歳を重ねさすがにやせたけれど、虫歯が一本もなかったし食欲もあったし頭もはっきりしていた。
だから最後に入院した時も、私は「今ほとんど治療中だというから、もう少し元気になったらお見舞いに行こう」と思っていたけれど、それきりだった。
その時は、母方の祖父のようには考えられなかった。
悲しいというよりショックだった。
時間をかけて覚悟をすることができる場合ばかりではないということを思い知らされた。
徐々に遠ざかるのではなく、急に奪い取られたかのようだった。

そして、それは年が若くても同じことだと思った。
かどをまがったとたん姿が見えなくなる、そんな感じで死ぬことはいくらでもあるのだろうと思った。
あの時以来ずっと、「ひとは、命は、いつかみんな死に別れるもの」として生きている。
そのおかげで、すべてが今だけのものと、たとえようもなく愛しんで生きることができている、と思う。
愛しいと思うものがあって手放したくない今があることのなんて幸せ。

一緒に生きた人が死ぬことで教えてくれること。
おかげさまで、しあわせです。

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